2016年08月02日

小学校での英語教育


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DMC-FZ1000, ファーム富田

ずいぶん久しぶりのブログになってしまいました(^^;。

 前々から言われていたことではありますが、小学校でも正式に英語が教科化されるようです。
「使える英語」「コミュニケーション力の向上」「グローバル社会への対応」…様々な理想が打ち上げられていますが、根本的な問題を、なぜかマスコミは報道してくれない。

 以前にも述べましたが、40人一斉授業で、英語力が向上できるとは思えないのです。
 もし、それを実現させる教員なりALTなりがいたら、僕がECCやNOVAの社長なら、すぐさまスカウトします。
 だって、英会話スクールなんて、1クラス5人程度でやってるじゃないですか。それを40人さばけちゃう人材…。5倍の給料を払ってもまだおつりが来る計算です。

 まして、塾や英会話スクールと違って、能力もやる気も知識もバラバラな40人です。
 その上、僕たち教員は英語教育のための養成プログラムを受けていないし、配属されてくるALTは、教員としての養成プログラムを受けていない。
「40人をさばく技術はあるが、英語に長けているわけではない教師」と「英語はネイティブだが、子どもの扱いに関してはほぼ素人」なALTの組み合わせで、英語教育に挑んでいる状態です。

 現実には効果は上がらないでしょう。
 そこを問題視せず、ただ授業時間を増やしてALTをばらまいて配置したところで、効果が上がるはずもありません。

 そもそも英語教育が、小学校から必要なのか?という疑問もありますが、やるにしてもこれでは現場(教員も子どもも)が疲れるばかりです。

 僕個人としては、小学校の英語教育は、あくまでも異文化交流の域で良い、と思っています。
 外国人に接し、知らない言葉を耳にし、興味を持たせればそれで十分ではないか。

 本当にそれを「おもしろそう!」と思った子のうち、家庭の事情が許せば英会話スクールに行く子が増えるでしょう。それで十分(というか精一杯)じゃないかな、と思うのです。

 逆に、教科化によって英語の成績を評価するようになれば、小学校の時点で「英語きらい」「英語苦手」と思う子が必ず出てきます。そのデメリットの方が、ずっとずっと大きいと思います。
 小学校では、中学校での英語ショックを和らげるために、まずは興味を持たせること、なんとはなしに慣れさせておくこと、そこを目標にすれば、子どもたちも教員もメリットがあるのではないでしょうか。

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 北海道に行ってきました。涼しかった!
 富良野と美瑛は2回目の訪問でしたが、何回来てもすばらしいと思えます。また行きたい。


posted by ねこぶえ at 10:06| Comment(2) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月19日

もちろんすぐには戦争にならない


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DMC FZ1000, 小岩井農場


 平和主義の崩壊と、平和の維持とは、イコールではないんだよな、と改めて気づきました。

 今回の安保法案の成立で、事実上、日本の平和主義は崩壊しました。
 ただし、日本は「戦争を起こさなければならなくなった」(当たり前だけど)わけではないので、ただちに平和が崩壊するわけではありません。

 安保法案は、日本の「できること」を増やした法案なので、本当に正しく適用されれば「良いもの」になります。
 それは、自衛隊という存在そのものが証明しています。自衛隊は法的安定性はなく、システムそのものは問題ありですが、自衛隊員一人ひとりの災害救助活動などでの誠実な働きが、自衛隊の存在を確固たるものにしています。

 同様に、安保法案の成立を確固たるものにすべく、自民党は当然しばらくは何もしないはずです。
 実際、アメリカが大統領選挙に向けて内側を向いているこれからの時期、世界で紛争が起こって日本が巻き込まれる可能性はそもそも小さい。安保法案が成立しても、何も変わらない時期が続くことで「安保法案成立による平和の維持」は自然とアピールされます。

 その後も、一度くらいはアメリカの要請を断ってみせるくらいはするかもしれない。
 そうすることで「安保法案で戦争になるなんて言ってた奴らはバカだ」という実績を作れるから、反対運動は根拠を失っていくでしょう。


 でも、その先のことです。
 これまでの事実が示す通り、アメリカはきっと、大義なき戦争をどこかで起こすでしょう。
 自衛をタテマエとして、本当は国内の不満をそらすため、軍需産業を支えるため、世界への影響力を示すため、等々の理由で。

 日本は、最初は実に慎重に出兵するに違いありません。
 最初は本当に安全なところでだけ。
 平和を維持した満足感と共に、「戦勝国」の仲間入りによる高揚を味あわさせられる。
 その決断をした首相と、その与党は、支持率を一気に上げる。

 次の戦争では、戦死者が出るかもしれない。
 でもそれは、必ず美化される。というか、本当に美談になるような場所が自衛隊の任地として与えられるはずです(難民を守るような場所とか)。

 そうやって慎重に慎重に既成事実が積み上げられ、そしていつの間にか、安保法案は正しく運用されなくなり、今のアメリカと同じような道を歩むことになる。韓国が反日で不満をそらすように、日本は軍事行動で不満をそらすようになる。
 おそらく、今、経済界が武器輸出を国の基幹産業にしようと言っていることともリンクするのではないでしょうか。
 武器輸出をすればするほど、自衛隊を出せるチャンスが広がるのだから。


 こうして、一部エリートと、政治家が富と権力を独占する社会が実現される。

 失うものは、貧困層の命や生活と、影響力の小さい国々からの信頼。どちらもエリート層には関係のないもの。


 悲観論に過ぎるかもしれませんが、少なくとも「安保法案で戦争は起こらない」の実績作りをするところまでは間違いないだろうと思います。
 さすがに、法案が通ったからすぐ戦争参加!とやるほど自民党もおめでたい人たちではない。
(そういう意味では、民主党はおめでた過ぎたんですね。政権を取ったとたんに、いろんな事を変えようとし過ぎた。)
 戦争参加をコントロールされるということが、実は一番恐ろしいことなんだけど、正常にコントロールされている限りは問題は起こらないので。平和主義の根本が崩されているにもかかわらず、平和は恣意的に維持される。

 それに対して、どうやってちゃんと平和主義を保っていくのか。息の長い活動の難しさを感じます。
 次の選挙が大事ですが、「何も起こらない」ことに対して、活動を続けることができるかどうか。
 自分のできること(と言っても、意見を表明したりデモに参加したりすること、そしてしっかり自分の生活を送ることくらいだけど)をやっていこうと思います。

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小岩井農場での一コマ。牛って大きい!を実感しました。
posted by ねこぶえ at 20:56| Comment(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月15日

謝罪や反省をいつまで続けるかと考えれば

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DMC FZ1000, 小岩井農場 羊ショー


 戦後70年の「安倍談話」を読みました。
 マスコミから突っ込まれないように、韓国や中国の指摘に反論できるように、そして自分の支持母体である右派の人へも申し開きができるように…、そんな課題に取り組んだような文章でした。
 たとえば「お詫び」という言葉を入れつつ、かといって安倍首相自身はお詫びをしているわけではないようであり、侵略という言葉は入っているけど、日本がしたことはあくまでも「国際社会への挑戦だった」ということになっており…、この文章を作成した人は本当に苦労したんだろうし、「外交」としては無意味でもないんだろうけど…、一体これは、誰のための談話なのだろう?というのが第一印象です。


 …そもそもなのですが、この70年談話は、発表する必要があったんでしょうか?
 だれ得なん?と思いました。


 問題となるのは、「第2次世界大戦への反省と謝罪」であるわけです。

 日本の謝罪のあり方の問題と言えるでしょう。
 そして、謝罪というのは当たり前のことだけど、被害者と加害者の二方がいるわけです。

 加害者としての日本の言い分は、国際的にはもう解決済みで、それ以外にもODAなどでもう十分に償ったよ。ということです。
 でも、それって、日本が口に出していいのかなぁと思います。


 自分が、愛する家族の命を奪われたときに、加害者から「俺、もう刑期も終えたし、罰金も払ったから、もうあなたとの関係は終わりね」って言ってこられたら、とてもじゃないけど心穏やかではいられないと思うのです。

 じゃあ、どうすればええねん!?と言えば、そっとしといてもらうしかないです。死んだ人が帰ってこない以上、基本的には「もういいよ」とは言えない。
 戦争だったんだからしょうがない…と、みんなが思えるのは、まだまだずーっと先のことだろうと思います。

 実際、僕自身は広島や長崎に血縁者の一人もいないけど、日本に対する原爆投下を許す気にはなれない。
 アメリカは公式に謝罪すべきだと思うし、謝罪したからといって「もういいよ」とは言えそうにない。少なくとも、アメリカがその反省の印として核兵器を全廃してみせるくらいは必要だと思う。(そして、それでも「もういいよ」と言えるかどうかはわからない)


 日本も同じだと思います。
 韓国や中国と、未来へちゃんとした関係を作っていくためには、たしかに反省や謝罪をし続けるわけにはいきません。でも、上で述べた通り、「もう終わりね」とか「じゃあどうすりゃいいのさ?」とかを、日本の側から言うのはやっぱり変だと思うのです。

 ここは、アメリカが原爆の使用について何も言わないのと同じように、日本も、黙っているべきだと思うのです。
 それを、なんでわざわざ「70年談話」として、こちらから口火を切るんだろう???と疑問に思うのです。

−−−
 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。
 しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
−−−

 これが安倍談話の一部分ですが、結局何が言いたいのかがわからない。
 最初の段落を読めば「わたしたちの子や孫は、もう謝らなくていい」と言っちゃってるわけです。

 「しかし、それでもなお」とつないでいますが、その段落は「事実を受け継ぐよ」と言っているだけですから、先の例で言えば「俺、もう刑期も終えたし、罰金も払った。この出来事は俺の子どもにも言っとくからさ」と言ったようなものです。
 これを、わざわざ言う意味はどこにあったのだろうか?と思うのです。



 安倍首相はすでに、「今までに日本が出した公式発表を踏襲する」と言ったのだから、もうそれで十分だったのではないでしょうか。
 そして、経済的なつながりと、民間交流と、学術的な関わりを深め、根っこの方から相互理解を続けてゆく。
 何かで、過去のことに触れなければならなくなったときは、「村山談話の通りです」ですませる。

 それが、結局のところ一番の近道だと思います。韓国や中国にしても、「反日」で国を成り立たせていくような方法が、いつまでも続くはずもない。これから先も、「反日」「謝罪を要求する」「賠償を要求する」という外交カードは使ってくるでしょうが、日本は「今までにしてきた通りです」で返していくだけだと思うのです。

 謝罪や反省をいつまで続けるかと考えれば、そうしていつか、韓国や中国も反日では国がまとまらなくなって、それでもなお、日本がきちんと平和国家として存立していれば、もう誰も何も言わなくなる日が来るんじゃないでしょうか。
 それを待ちつつ、しかし地道に、民間レベルでの交流を深め、経済的につながり、別のところで理解を深めていくことしかないと思います。今回の談話は、その意味では国益を損なっているなぁと思います。

 それでもなお、談話を発表したのは、一つは建て前。そしてもう一つは、将来の戦争参加への地ならしかもしれないと思います。

 僕の記憶が正しければ、安倍首相が「70年談話を発表する」と決めたのは、今の戦争法案などで支持を失うずっと前だったと思います。
 だから多分、安倍首相は、国民多数の支持を背景に、村山談話を事実上無効にするような談話にするつもりだったのだろうと思います。ところが、戦争法案で支持を失い、また自民党の驕りもあって、ここは慎重に行かざるを得なくなった。その結果がこの「だれ得?」な談話なのでしょう。
 「建て前」で政治をしつつ、中身は非常に恣意的なものを感じます。今回の談話でも、はっきり読み取れるのは、第2次世界大戦は侵略ではなかった、と言いたいということです。

 あれを「自衛」「解放」のための戦争とすれば、たとえば前のイラク戦争のような戦争にも、日本は参加することになるだろうと思います。

 今日は終戦の日ですが、本当に平和は「一人ひとりがたゆまない努力で作っていくもの」ということを思わされます。自分ができることを小さくてもやって、おかしいことはおかしいと、ちゃんと言っていきたいと思います。

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今年の夏の旅行は、岩手県に行ってきました。一日目に訪れた小岩井農場での羊ショーです。
柵がちょっと邪魔でしたが、牧羊犬の目つきの鋭さと、動きのダイナミックさ、そして賢さに惚れ惚れしました。
posted by ねこぶえ at 13:27| Comment(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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